【本】傲慢と善良|ふたつの「傲慢」、そして「謙虚」「邪悪」「敏感」について

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今、自分の目の前にふたりの人間がいると仮定します。

ひとりは傲慢な人間、もうひとりは善良な人間。

訳あって、どちらかひとりと一緒にランチをすることになりました。

その場合、選ぶとしたら圧倒的に後者。

私としては、店員さんにおつりを投げ渡す人よりも、ニコリと笑って「ごちそうさまでした」と言う人と一緒に過ごしたい。

きっと多くの人も同じはず。

しかし物事はそんなに単純ではない。

この物語を読んで、そのように考えるようになりました。

あらすじ

マッチングアプリで出会った真実と架。

ふたりは結婚を約束するが、直前になって真実は架の前から姿を消してしまう。

行方を探すために真実の地元を訪れた架は、今まで持っていたイメージとは違う彼女の一面を知ることになる。

2024年に映画化もされた、累計100万部突破の辻村深月による恋愛小説。

ふたつの種類の傲慢

この物語には2種類の傲慢が描かれていると感じました。

ひとつは、自分の方が立場が上だと思い込み、相手を侮り見下す一般的なイメージの傲慢。

そしてもうひとつは、善良が暴走して歯止めがきかなくなった、成れ果ての姿としての傲慢です。

たとえば、架の女友達である美奈子。

強烈なキャラクターで物語の重要な役割を担いますが、おそらく彼女はシンプルな傲慢タイプ。

パートナーでもないのに、架を自分の手元に置いておきたい、もし誰かと結婚するなら自分が認めた女性でないと嫌だ、との思いを隠さない彼女は傲慢そのものです。


真実も美奈子と同じタイプの傲慢だと思います。

お見合い相手を第一印象で選別したり、出身校を間違えられただけで怒る彼女もやはり傲慢です。

真実の場合、自分を善良とは思えども傲慢だとは考えてもいないでしょう。

この本の言葉を借りるならば、美奈子は「自己評価も自己愛も高い傲慢」。

真実は「自己評価が低くて自己愛の高い傲慢」、といったところでしょうか。

ふたりはお互いを嫌い合っていますが、その感情はもしかしたら同族嫌悪なのかもしれません。

真実は美奈子のあからさまな傲慢を、美奈子は真実の善良の裏に隠された傲慢を、お互い自分自身の鏡として捉えたのでしょう。


いや、もしかしたら美奈子も実は自己評価が低いタイプの人間なのかもしれません。

美奈子の傲慢な態度は、彼女の自信のなさの裏返しの可能性もあります。


実は私、この美奈子のキャラクターが好きでした。

人間として好き、という訳ではなく「実際にこういうタイプの人いるよな」と、辻村深月さんの人物描写の巧みさに引き込まれたのです。

真実や架にズケズケ物言いしてヒール役に徹する彼女の姿に「それ言っちゃったか‥」と感じながらも内心ワクワクしてしまったのも事実です。


‥余談ですが、美奈子は夫との関係になにか大きな問題を抱えているのではないでしょうか。

そうでないと、架と真実の関係をここまで邪魔する理由がわかりません。

架を異性として好き、との思いもそこまで強くないように感じますし。

でもまぁ、美奈子についての考察は本筋から外れてしまうのでこの辺にしておきます‥


次は、もうひとつの傲慢。

善良のなれ果ての姿としての傲慢です。

こちらは、真実の母親である陽子が代表的です。

娘に辛い思いをさせないように、学校も就職先も結婚相手もすべて先回りして決めようとします。

おそらく陽子も、真実と同様に自分を傲慢だと思っていないはずです。

なぜならすべては娘のため。

自分は娘の幸せを願っているだけの善良な母親なのだから。

しかし、それらの陽子の行動の裏には「この子は自分がいないとダメだから」との思いが見え隠れしています。

真実はもう30歳を超えた大人で、独立して仕事もしています。

それなのに親がいないと何もできないと決めつけるのは、傲慢以外なにものでもありません。

陽子の場合、確かに出発点は善良だったのだと思います。

幼い頃の真実は実際に何もできず、何もかも陽子が手をとって助けてあげていたのでしょう。

しかし、真実が成長して自分でできることが増えても、陽子はそれに気がつかず(または見て見ぬふりをして)、相変わらず彼女の価値観で真実を束縛し続ける。

当初の善良さは自己満足となり、その針は次第に傲慢さに振れていったのだと思います。


一方で、なれ果ての傲慢を回避した人物もいます。

かつての真実のお見合い相手である金居です。

金居は東日本大震災の時に、会社を辞めて東北にボランティアに行きます。

ボランティアの心持ちは難しくて、最初は善意からスタートするものの、ややもするといつの間にか「やってやっている」という感覚に陥りがちです。

支援する人と受ける人で、不平等な力関係が生じてしまうのです。

しかし金居は「自分のこの活動は自らのためでもある」と自覚した上で、ボランティア活動を続けます。

人間が傲慢にならず善良の域に踏みとどまるためには、金居のように常に自分自身の姿を俯瞰し、今の自分の行動が「誰のため、何のための行為なのか」「他者の生きる力を奪っていないか」と自分に問い続けることが必要なのかもしれません。


『傲慢と善良』では、傲慢と善良が対立する概念ではなく、誰もが持っている二面性の可能性を指摘しています。

しかし、物語はそれだけでは終わりません。

最後にもうひとつ大事な概念が登場します。

それは「鈍感」。

物語の後半、真実が架に対して感じたものです。

確かに、真実の言葉を信じて愚直に行動する架の姿は、善良を通り越して鈍感と表現したほうがよいでしょう。

昔からの女友達(しかも、よりによって美奈子のような人物)に真実を会わせるのも、デリカシーに欠ける行為だと思います。

「傲慢」と「善良」と「鈍感」。

もしかしたら、この3つをもっている架のような人物が、今の日本人の大多数を占めているのかもしれません。(付け加えると真実は架のことを「鈍感で優しい」と述べています)


ちなみに、この3つの意味をひっくり返すと「謙虚」「邪悪」「敏感」になります。

なかなか示唆に富んでいると思いませんか?

「世の中の動きに敏感で、謙虚だけど心の中は邪悪」な一部の人間が、「自分は善良だと信じている傲慢で鈍感」な大多数の人間たちを操っている‥そんなイメージが私の頭の中に浮かびました。

私としては「人の痛みに敏感で謙虚かつ善良な人間」でいたいな、と思います。

でも、それはそれで自分が潰れてしまいそう‥

なかなか生きていくのが難しい世界、ということですかね。

世知辛い世の中です。

ではでは。

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