『アドレセンス』で感じた親としての不安|エディは結局どうすればよかったのか?

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少し乗り遅れてしまったけれど、Netflixで話題の『アドレセンス』を観た。

同じ世代の子を持つ親として、得体の知れぬ不安を感じる作品だった。物語のラストで父親のエディが「部屋の中にいれば安全だと思っていた」と言い、息子のベッドで泣き崩れる場面はとても印象的だ。やりきれない思いで、こちらまで泣けてくる。

私が感じた不安というのは「結局どうすればよかったのか?」に対する明確なアンサーがないところだ。つまり、自分も同じような境遇になる可能性があるということ。そんなの怖すぎる。

今回は思春期(アドレセンス)の子供を持つ親の立場として、「エディたちはどうすれば良かったのか」について考えたいと思う。

なぜジェイミーは13歳にして殺人を犯すような人間になってしまったのか?

物語の舞台はイギリス。13歳の少年ジェイミー・ミラーが同じ学校の女子生徒を殺害した容疑で逮捕される場面から始まる。ある朝、急に警察が自宅に押しかけてきて息子を逮捕するなんて、親なら誰だってパニックになるはずだ。

運動が苦手で内気。どこにでもいるような少年が、なぜ殺人犯になってしまったのか。私が考えたのは次の3つである。

①エディ(父親)の影響

②クラスメイトのいじめの影響

③インターネット(SNS)の影響

①エディ(父親)の影響

エディとジェイミーは決して仲が悪い親子ではない。むしろジェイミーは父親であるエディを尊敬しているような言動も見られる。

エディは典型的な「男らしい」父親だが、表面上はそれを息子のジェイミーに押し付けている様子はない。だけど、自分の息子が「男らしく」成長することに暗に期待はしていたと思う。

この物語の核となるエピソードに、サッカー教室の思い出がある。エディが幼いジェイミーをサッカー教室に通わせたが、全く才能がないジェイミーはみんなに笑われる。彼は助けを求めるように父親を見るが、エディは思わず顔を背けてしまった、というエピソードだ。

この出来事をきっかけに、ジェイミーは「自分は男らしくない」「父親の期待に応えることができない」と自信をなくし、次第に性格が屈折してしまった。と考えることはできると思う。

②クラスメイトのいじめの影響

物語が進行するにつれて、ジェイミーはクラスメイトからいじめを受けていたことがわかる。唾を吐きかけられたり、足をひっかけられたりしていたらしい。

また、後にジェイミーに殺害されてしまうケイティが、SNSでジェイミーをインセル(非モテ男)扱いするコメントを残しており、多くの人が「いいね」をつけている。

ジェイミーはいじめられている原因を自ら「気持ちが悪いから」と分析をしている。彼には友達が2人いるが、その友達も「貧乏」「バカ」という理由でいじめられている。どの時代、どの国にもスクールカースト的なものは存在するようだ。

ジェイミーがケイティを殺害したのは、カースト上位者に対する積年の恨みが爆発した結果。と説明ができるかもしれない。

③インターネット(SNS)の影響

この物語では、子供/大人を断絶させている存在としてインターネットが描かれている。

上記でも触れたが、ジェイミーはSNSの書き込みでも級友たちにいじめられていた。若者にしかわからないネットスラングを使って。

一方、ジェイミーはジェイミーで、インターネットの世界で「インセル」や「ミソジニー」といった言葉に出会い、その偏った考えに染まっていく。そして、最終的にはその考えが暴走してケイティを殺してしまうのだ。

ちなみにSNSでジェイミーをからかったケイティだが、自身も上半身裸の画像がSNSを通して学校中に広まる、という深刻な被害を受けている。怖すぎるよ、インターネット…

結局エディ(父親)が一番悪いのか?

①ジェイミーに「男らしさ」を求めたエディ、②クラスメイトのいじめ、③インターネットによる偏った知識。この三つの要因が複雑に絡み合い、そこに「思春期」というブーストがかかってジェイミーは殺人を犯してしまった、というのが私の考えだ。

原因はなんとか整理できた。で、結局どうすれば良かったのか?を考えるのがこの文章の目的である。

このように原因を並べてみると、「すべての根源は父親」と言えなくないような気もしてくる。

②に対しては親がもっと早く気がついていれば(日頃から子供と向き合っていれば)結果は違ったかもしれないし、③の環境(パソコンやスマートフォン)を与えたのも親である。

ここまでは両親の責任になるかもしれないが、エディには①がある。だから諸悪の根源はエディ。彼が、時代錯誤の「男らしさ」を息子に求めたからだ!となる。

いやいやいや、でもちょっと待ってもらいたい。このドラマを見た人はわかると思うけれど、エディは全然悪い父親ではない。(と私は思う)家族を真剣に愛しているし、息子からも信頼されている。

そもそも、ミラー家はごく一般的な家庭だと思う。(程度の差はあれ)子供に期待し、仕事などで子供と向き合う時間が十分に持てず、求められればスマートフォンを買い与える。日本でもよく見られる光景ではないだろうか。

普通の家庭で普通に育てたはずの子供が殺人を犯してしまう。だけど物語では「どうすれば良かったのか?」という答えまでは用意されていない。

最後にマンダ(ジェイミーの母親)が「もっとできることがあったことを認めましょう」とエディに言うが、視聴者としては、その「できること」がなんだったのかが知りたいのだ!

ミラー家は仲が良すぎる?

ここでもう少しミラー家について深掘っていきたいと思う。絶望の淵にいる彼らの「強み」について考えてみることで、そこから見えてくるものがあるかもしれない。


【ミラー家の強み】
・夫婦仲が良い
エディとマンダは10代からの付き合い。朝からイチャつくこともあるくらいの仲良し。

・家族仲も悪くない
エディの誕生日には家族みんなでお出かけ。父親が家族の中心で母親が支える、という伝統的な価値観も見え隠れする。

・頭のよい子供たち
ジェイミーは警察に「頭の良い子だ」と言われている。そのジェイミーも姉のリサのことを「頭が良い」と言っている。

・お金に困っていない
持ち家で子供部屋も用意されている。仕事用の車はベンツ。少なくとも貧困ではない。

・大きな病気を抱えている者がいない
家族全員、大病は患っていない。


書き出して思ったけれど、ミラー家はなかなか理想的な家族ではないだろうか。家族仲が良くて、みんな健康で、お金にも困っていない。おまけに子供たちの頭も良い。

その一方で、何かが心に引っかかる。

この家族に関わる人(の描写)が少なすぎるのだ。長男が殺人事件を起こしているのにも関わらず、である。

例えば母親のマンダ。自分の息子がこんなことになったのに、夫のエディ以外の誰かに相談している様子がない。確かに事件が事件だけに誰にでも話せる内容ではないけれど、自分の親友や両親ぐらいには相談しても良いのでは、と思う。そういえばマンダは仕事をしている様子もない。相談できる相手が、夫のエディ以外にいないのかもしれない。

エディとマンダには今回の事件のことでカウンセラーがついているようだが、実際に二人がカウンセリングを受けている様子は描かれていない。登場するのは、ミラー家に嫌がらせをする少年たちと、それを遠巻きに見ている近所の人たちだ。

ミラー家は両親を中心に仲が良い。しかし、それ故に外部の人とは積極的に関わらずに今まで過ごしてきたのかもしれない。ゆるやかに閉じられた円のように。

その弊害として、息子のジェイミーは父親以外にモデルとなる大人の男性を知らなかった可能性がある。(学校の教師たちもあまり魅力的ではなさそうだ)だから、父親みたいになれないと悟った時点で、ジェイミーは「自分はダメな人間だ」と思うようになってしまったのだ。

子供に外の景色を見せてあげることの大切さ

世の中には色々な大人がいる。見た目がイマイチで運動神経が悪くても、輝いている人なんていくらでもいるのだ。だけどジェイミーは「ゆるやかに閉じられた家庭」の中にいたからそのことを知る機会がなかった。父親しか見えていなかったのだ。

そう考えると、きっとジェイミーに必要だったのは家族でも学校でもない「第三の居場所」だったのかもしれない。ネットのような仮想世界ではなく、人と人とが面と向き合って話をする場所。両親はそのような場所を一緒に探してあげるべきだったのかもしれない。

ジェイミーには運動の才能はなかったが、絵を描くのは昔から好きだったようだ。もし、サッカー教室ではなく絵画教室に通っていれば違う未来があったかもしれない…と想像してしまう。

親は一から十まで子供に教えてあげることはできない。だからこそ困難にぶつかったらその都度、自分の頭で考えて判断できる人間に育てなければいけない。そのためにはたくさんの経験をして様々な価値観に触れさせる。それは、親の力だけでは全然足りない。

そう考えると、マンダが言っていた「もっとできることがあったかもしれない」の「できること」とは、ジェイミーを子供部屋から外に連れ出して、広い世界を教えてあげることだったのかもしれない。子供をずっと「安全な場所」に閉じ込めておくわけにはいかないのだ。

親たちもいっぱいいっぱい

子供のためにも、ずっと安全な場所に置いておくのは良くない。それはたぶん、そうだろう。

だけど…でも…しかし…

子供を「安全な場所」にとどまらせておきたい、と思う気持ちは親として非常によくわかる。理屈ではなく、もうたぶんこれは動物としての本能だろう。

そして冒頭でも触れたが、ミラー家は決して極端な例ではない。今回は敢えてアラ探しのようなことをしたが、ミラー家はごく一般的な(むしろ幸福な)家庭だと思う。だからこそ、なぜ?となる。

当たり前の話だけど、最初はみんな子育て初心者である。しかも自分たちが子供の時とはまるで環境が違う。常にルールブックが書き換えられていて、その更新スピードも早い。親世代の子育て(つまり自分たちが育てられた方法)を参考にしたら即アウト、下手すれば虐待案件になってしまう。

子供たちによって個性も違う。学校や友人関係など、親にはコントロールできない面も多々ある。そしてネットでは子供たちが何を見て、誰と接しているのかわからない。誰を頼って、何を信じたら良いかわからないことだらけの状況で、現代の親たちは迷いながら子育てをしているのだ。

最後のエディの涙の理由はこれだと思う。「俺、もうわかんないよ」という涙。幸せな家庭を築くために自分なりに一生懸命頑張ってきたのに、息子が殺人犯になってしまった。無力な自分に深く絶望しているのだ。

そんな時に「もっと子供に外の世界を教えてあげるべきだったね」としたり顔で言われたら、すごく腹が立つと思う。「お前に何がわかるのだ」と。

それでも、私たちは考えるのをやめてはいけないのだと思う。子供を守ってあげるのは、やはり親の役割なのだから。自分の立ち位置さえ定かでない混沌とした世界の中にいても、しっかりとその手を握りしめて正しい道へと導いてあげなければいけない。

子育ての答えなんて誰かに教えてもらうものではないし、そもそも答えを求めること自体が間違っているのかもしれない。

でも、間違いなく大事だと言えることがひとつある。

それは、毎日わずかでも子供たちと向き合い、会話する時間を持つこと。別に大した話でなくても構わない。今日の出来事や世間で今流行っていることなど。(こんな時インターネットの情報はとても役に立つ)もし子供に異変があった場合、その中にヒントが隠れていると思う。

少なくともSNSやAIの中に答えは用意されていない。だから私たちは自分の頭で考え続けるしかない。後になって「もっとできることがあったかもしれない」と子供のいないベッドで涙を流さないために。

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