【映画】ケイコ目を澄ませて|非主人公的な視点から考えた「主人公」について

映画

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「主人公」ってなんなんですかね。

現実世界でもときどき言われる「主人公キャラ」みたいな人。

イメージ的には、圧倒的な才能、逆境に負けない強さ、特別な存在感、恵まれた仲間たち、などを持つ人でしょうか。

憧れる反面、非主人公的な存在の私は「自分なんて所詮モブキャラだし。違う世界の人間だし」と考えがち。

しかし、主人公的な人たちの主人公的な部分も、あくまで第3者から見た一面にすぎません。

本人たちは案外「自分はそんな特別な存在ではないのにな」と思っているような気もします。

明らかに主人公属性なのに主人公っぽく描かれていない作品。

それが『ケイコ 目を澄ませて』なのです。


聴覚障害をもちながら、下町のボクシングジムで日々練習しながらプロボクサーとしてリングに立ち続けるケイコ。日中はホテルの清掃員として働いています。

障害を乗り越えて働きながらプロボクサーとして頑張っている姿は、物語的には間違いなく「主人公」です。

気が強くて愛想笑いが苦手、人と群れないクールな性格も主人公っぽいです。

しかし、この作品ではケイコを一般的なイメージの主人公として描くことを避けているように思います。

もし主人公らしく見せたければ、プロボクサーになるまでの過程を描くのが一番です。

女子ボクシングというマイナーな競技、耳が聞こえないというハンデ、母親の反対、数々の試練を乗り超えて最終的にはプロボクサーの試験に合格する‥

物語としてはこちらのほうが確実に盛り上がり、観客は大きなカタルシスを感じるはずです。

しかし、この映画はプロボクサーになったケイコの「その後」から始まります。

プロになったケイコは決して注目を浴びている選手とは言えないし、所属しているジムは閉鎖してしまう流れ。

なぜ一番輝いている時期に焦点を合わせず、わざわざそのような日陰の部分を切り取って作品にしたのか。


それはたぶん、この映画がケイコという人間をそのまま描きたかったからだと思います。

そのためには劇的な部分にだけスポットライトを当てるのはフェアではない。

そんなことをしたらケイコは「障害を乗り越えて自分の夢を叶えた偉大な人」という安易なレッテルを貼られてしまう。

そして私たちはケイコのことを「自分たちとは違う主人公側の人間だ」と切り離してしまう。

それは結局、ゆるやかな分断ではないかと私は思うのです。

分断が起きた瞬間に、人は良くも悪くも相手を理解することをやめてしまう。

ケイコと私たちは別の世界の人間になってしまいます。

そうではなくて、ケイコは実際にこの世界にいるのです。

いや、実際は映画の登場人物だからケイコはいない(モデルとなった原作はありますが)のですが、ケイコのような人たちはきっと想像している以上にこの世界にたくさんいると思うのです。


淡々と厳しいボクシングの練習に打ち込むケイコの姿は、ブレない強い女性を感じます。

一方、その裏ではボクシングを続けるかどうか悩んでいて、誰にも相談できない弱さを抱えています。

たぶん、ボクシングはケイコにとって、やっと手に入れた自分の居場所。

もし手放してしまったら、自分が何者でもなくなってしまうという不安。

やっと自分自身の人生の主人公になれたと思ったのに、その座から転落してしまう恐怖。

そのような葛藤する姿を見せることによって、ケイコを「普通とは違うすごい人」としてではなく、シンプルに「ひとりの人間」として描きたかったのだと思います。

ケイコの強さも弱さも見てきたからこそ、私たちは最後の試合のケイコの雄叫びに、言葉にできない複雑な感情を感じることができます。

泥臭く戦うケイコの姿に、自分自身と重ね合わせる人もいるかもしれません。

きっとたくさんのケイコのような人たちが、今もこの世界で頑張っている。

まだ誰にも発見されずに、不安を抱えて、ひっそりと。

この作品は、見終わった後に「いい映画だったね」と言われた直後、スタバでコーヒー飲んだら忘れさられてれてしまうようなものではなく、私たちが住む現実世界にそのことを持ち帰って欲しかったのだと思います。


ちなみに、この映画では音楽はほとんど流れません。

唯一音楽が流れるのは、ケイコの弟がギターをつまびく場面だけ。

私たちが聞くことができる音は、映画の登場人物たちの耳に入る音と同じものです。

たとえば、人々の会話や生活音。

街の雑踏、電車の車輪や車のタイヤが地面にこすれる音。

そしてボクシングの場面でのミットを叩く音や、リングにシューズがこすれる「キュッキュッ」という音。

その静かで淡々と日常が進んでいく様子が「エンドロールの後の物語」という感じがします。

それは、映画が終わってもその人の人生は続いていく、というメッセージにも受け取れます。

音楽も言葉も最低限なのに、自分の中で勝手に問いが生まれて延々と考えてしまう。

問いもその答えも丁寧に用意されがちな今の世で、とても貴重な作品だと思います。

映画である必然性を感じられる作品でした。

ではでは。


☆こちらは映画の原案となった小笠原恵子さんの自伝です

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