変な話だけれど、僕よりは彼らの方がより多く磨り減っているように見えた。どうしてだろう? 何故いつも僕が残されるのだ?
村上春樹:『ダンス・ダンス・ダンス』
そして何かひとつしくじれば、僕が別の惑星の人間だということはみんなにばれてしまう。
村上春樹:『ダンス・ダンス・ダンス』
データが不足しているのだ。 だからいつも回答がでてこないのだ。 何かが欠けているのだ。
村上春樹:『ダンス・ダンス・ダンス 』
そもそも、私が村上春樹作品に惹かれたきっかけは、主人公が感じている、社会やまわりの人間に対する違和感が、そのまま自分のことのように感じたからです。
久しぶりに「ダンス・ダンス・ダンス」を読み返して、そのようなことを思い出しました。
私は中学から高校生ぐらいまで、他人を欺いて生きていると感じていました。
意識的に欺いているわけではありません。
しかし、まわりに認識されている自分と、本来の自分との間に大きな隔たりがあるように感じていたのです。
例えば、私は昔から「いい人」と言われることが多かったのですが、実際はそんなことはありませんでした。
私はただ、他者との関係に時間と労力を使いたくないだけ。
余計な摩擦を避けて生きてきた結果「相手の意見を尊重するいい人」になってしまったのだと思います。
だから、いつかそんな自分の本性がバレてみんなが離れていくと内心恐れていました。
中学校も高校も3年間。
この3年ぐらいが自分の「賞味期限」の限界だと考えていたのです。
高3の時、友達に「お前は誰とでも一定の距離をとって接してるよな」と少し怒ったような感じで言われたのを、今でも鮮明に覚えています。
人が離れていくのは仕方がない。
ひとりも怖くない。(当時は本気で思っていました)
だけど、誰かを傷つけたいわけではない。
積極的に嫌われたいわけではないし「あいつは嘘つきだ」と思われるのは、やはり悲しい。
だから、18歳の時に村上春樹作品に出会った時は衝撃的でした。
「なぜ自分の気持ちがこんなにも言語化されているのか」と。
それから20年以上が経ち、私も40歳を超えました。
その間、就職して結婚し子供も生まれた私は、否が応でも社会や他者と向き合わざるを得ない状況に何度も遭遇しました。
特に妻という他者。
この一番身近な他者と向き合わないと、家庭という最小単位の社会の維持すらままならない。
妻との喜びの共有や数々の衝突、ある種の諦めを重ねて、少しずつ他者との関わり方を学んできたように思います。
村上作品では妻や恋人が主人公のもとから去ってしまうエピソードがけっこう多いです。(『女のいない男たち』という短編集があるほど)
この『ダンス・ダンス・ダンス』もそのような物語のひとつです。
「大切な人とわかり合うことができない」そして「わかり合う為にどうしたら良いのかがわからない」という答えのない苦しみが、主人公の孤独を浮き彫りにしています。
そう考えると、私の場合は妻のおかげで社会と首の皮一枚でつながっているような気がします。
少なくとも自分は妻という他者と一緒に生活を共にすることができている。
その事実が、40歳を超えた私にわずかながらも自信を与えてくれます。
とにかく、生きていくためには社会と関わっていくしかないのです。
そのためにはタフにならなければいけない。
傷つく覚悟も、時には誰かを傷つけてしまう責任も負いながら、それでも生きていかなければいけない。
それがたぶん人間社会で生きるということ。
今回久しぶりにこの作品を読んで、10代の時の懐かしい気持ちを思い出しました。
だけど「あの頃はナイーブだったな」と一笑する気持ちにはなれません。
あの頃の苦しみや胸の痛みをまだかすかに、でもしっかりと覚えているから。
むしろ過去の自分に対して「お前が耐えて、もがいて、考えた時間は決して無駄にはならないから。20年後もなんとかやっているから心配するな」と言ってあげたいです。
村上春樹作品の中では、他の名作に埋もれがちな『ダンス・ダンス・ダンス』。
気に入らないものすべてに毒付く若者の感性を残しながら、13歳の少女との交流を通して大人としての感覚も芽生えてくる主人公の様子が、読み返してみると新鮮でした。
足を停めずに踊るしかない。
そんなに上手くは踊れないかもしれないけれど。
ではでは。
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