第171回芥川賞受賞作品。
あらすじを見た時に、どんな物語か想像できなかったので興味津々で読み始めました。(よくわからないものに興味を惹かれる性分)
この物語をざっくり説明すると、右半分と左半分で体のつくりも人格も違う、結合双生児の姉妹(安と瞬)の話です。
このふたり、二重人格とは違うようです。
二重人格は何かのタイミングで別の人格と入れ替わるイメージですが、杏と瞬の場合は同時並行でふたりの人格が存在します。
つまりひとつの体に完全に別の人間がふたり入っている、ということ。
シンプルに、それってすごく嫌じゃないかな‥
姉妹といえども自分以外の他者に、性癖とか、どす黒い感情がつつぬけ。
杏と瞬は生まれつきそのような状況だから、それが自然なのかもしれませんが。
自分だけの秘密がいっさいない人生とはどのような気持ちなのだろうか。
秘密も感情も考えていることも、すべて自動的に相手と共有してしまうのならば、それはもう「ひとりの人間」ではないかと考えてしまいます。
しかし、杏と瞬、ふたりにはそれぞれ確固たる<意識>があります。
小説の中で、杏は意識・思考・感情について以下のように考えています。
“意識はすべての臓器から独立している。もちろん、脳からも。つまり、意識は思考や感情や本能から独立している。”
“自分の体は他人のものでは決してないが、同じくらい自分のものでもない。思考も記憶も感情もそうだ。そんな当然のことが、単生児たちには自分の身体でもって体験できないから、わからない。”
引用:朝比奈秋. サンショウウオの四十九日
そうか!この気持ちや感情は自分のものではないのか!!‥と考えても、やはりいまいちピンときません。
そもそも<意識>は<感情・思考>から独立している、というのがちょっとわからない。
特に<意識>と<思考>について。
<意識>と<思考>がそれぞれ別の概念だということは何となくわかります。
ただ<思考>は<意識>があるからこそ成り立つ概念ではないのか。
<意識>がないのに、何かを考えることは不可能のように思います。
うーん、難しい。
杏が言うように、自分が単生児だからこの感覚がわからないのか‥
もし<感情・思考>が自分のものではないと心から理解できたのならば、この世界の苦しみからも少しは救われる気もするのですが。
意識という、人間が内に秘めている宇宙の広大さを感じる小説でした。
この作品を作り上げた作者の想像力はすごい。
近いうちに『バリ山行』も読んでみたいと思います。
キャッチコピーは「純文山岳小説」。
こちらもなかなか内容が想像ができないので楽しみです。
ではでは。
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